2026/6/8
郡上八幡城のおよし物語、人柱伝説は本当にあったのか?

郡上八幡の城の立て看板に人柱についての記述があった。昔は本当にたくさん例があったのか?
キュリオす
郡上八幡城の立て看板にあった人柱の記述。昔は本当に多くの事例があったのか、伝説と史実の境界線、そして現代に語り継がれる物語の意味を探る。
人柱とは、橋や堤防、そして城といった大規模な建造物の無事な完成や、その後の堅固を祈願するために、人間を生きたまま土中に埋めたり水中に沈めたりしたという風習を指す。その起源は古く、『日本書紀』には4世紀の茨田の堤(まむたのつつみ)工事における人柱の記述が見られるという。この風習の背景には、万物に魂が宿るというアニミズム的な信仰があり、特に神道の多神教において神を数える助数詞が「柱」であるように、死者の霊魂が神となり、建造物に宿ることでその力を高めると考えられていたのだ。
中世以降、特に戦国時代から江戸時代にかけて、各地で難工事を伴う城郭や治水事業が盛んになると、人柱の伝説も数多く語り継がれるようになった。困難な土木工事において、自然を人間の管理下に置くための最終手段として、あるいは人々の畏怖の念から、人柱という観念が強く意識されたのだろう。
人柱の目的は、主に難航する工事の成功、建造物の堅牢化、そして自然災害の防止にあったとされる。特に堤防建設や橋の架け替え、築城といった、水に関わる大規模な土木工事において、その信仰は色濃く見られた。笹本正治による人柱伝説の集計では、堤防に関する事例が約130件と最も多く、次いで橋が26件、築城が13件と報告されている。
人柱に選ばれる人物にはいくつかの類型があった。自ら名乗り出る行者や巫女、あるいは貧しい老人や身寄りのない者など、共同体の外部に位置する人々が選ばれることが多かったという。これは共同体内部の厄災を外部の者に負わせるという、祭りの形式にも通じる考え方である。また、工事中に事故死した労働者を慰霊し、鎮魂する意味合いから「人柱」と呼ぶ場合もあったとされる。
郡上八幡城の「およし物語」も、築城時の石垣崩壊が相次ぐ難工事において、神路村の美しい娘およしが人柱に選ばれたという内容だ。この物語は、山の頂に城を築くという当時の技術的困難と、それに伴う人々の精神的な不安を色濃く反映している。
では、実際に人柱が「たくさん」あったのか、という問いに対しては、慎重な視点が必要になる。日本各地には数多くの人柱伝説が残るが、その多くは民話の域を出ず、明確な歴史的記録や考古学的な物証に乏しいのが実情だ。例えば、郡上八幡城のおよし伝説も、江戸時代の藩政期の古文書や過去帳に「およし」という実在の人物や人柱に関する公式記録は見当たらないとされている。城郭研究においても、人柱が立証されたケースはほとんどなく、石垣の崩落は工法や材料不足、自然災害によるものと解釈されるのが一般的である。
一方で、新潟県上越市板倉区の猿供養寺村では、地すべり被害を止めるために旅の僧が自ら人柱となったという伝説があり、昭和12年には地中から甕の中で座禅を組んだ人骨が発見され、伝説が事実であったことが確認された事例も存在する。 しかし、これは極めて稀なケースであり、多くの人柱伝説は、難工事に伴う事故死や、生きた人間の代わりに人形(ひとがた)などの呪術的な代替物を埋めた話が、後世に伝わる過程で「人柱」として脚色された可能性が指摘されている。 中国や古代カルタゴなど、日本以外の地域でも大規模建造物の際に人身御供が行われた証拠が確認されている例はあるが、日本の人柱もまた、その実態は限定的であった可能性が高い。
現代において、人柱伝説は地域の文化や観光資源として、語り継がれている。郡上八幡城のおよし物語もその一つで、毎年8月3日には郡上おどりの縁日として「およし祭」が営まれ、およしを慰霊する場となっている。城内にはおよしを祀る社があり、城下町にもその名残を感じさせる場所がある。地元の人々にとって、およしは単なる悲劇のヒロインではなく、城と町を守る守護神としての存在感を持ち続けているのだ。
こうした物語は、過去の困難な時代における人々の知恵や信仰、そして大規模な公共事業がいかに多くの犠牲の上に成り立っていたかを示すものとして、現代に伝えられている。史実としての確認が難しくとも、伝説が持つ意味合いは失われない。それは、現代に生きる我々が、かつての先人たちの苦労や、自然への畏怖の念を想像するための手がかりとなる。
郡上八幡城の立て看板から始まった人柱への問いは、単に「本当にあったのか」という事実確認に留まらない。人柱伝説が日本各地に数多く残されているという事実自体が、当時の人々がいかに自然の力や大規模な土木工事に畏怖の念を抱いていたかを物語っている。科学技術が未発達だった時代、たび重なる崩落や災害に直面したとき、人々が精神的な支えを求めたのは自然なことだったのだろう。
そして、多くの伝説が明確な物証を伴わないという点もまた、人柱の別の側面を示している。それは、実際に生きた人間が埋められるという残酷な行為が、社会的に許容されることが稀であったことの証左とも考えられる。むしろ、そうした極限的な状況を乗り越えるために、共同体の結束を促す「物語」として、あるいは工事の事故死者を鎮魂する「慰霊」の形として、人柱伝説が機能していたのではないか。伝説は、過去の出来事をそのまま伝えるだけでなく、当時の人々の感情や社会構造を映し出す鏡のようなものだ。郡上八幡城のおよし物語もまた、城下の安全を願う人々の切実な思いが、悲劇的なヒロインを通して結晶化した姿と言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。