2026/6/7
越中国一宮・高瀬神社、なぜ複数の「一宮」が並立するのか

越中国一宮 高瀬神社について詳しく知りたい。
キュリオす
富山県南砺市に鎮座する越中国一宮の高瀬神社。なぜ越中国には高瀬神社以外にも複数の「一宮」が存在するのか。地理的条件、古代の政治的中心地との関連、出雲との信仰的繋がり、そして各神社の歴史的背景を辿る。
富山県南砺市、砺波平野の南部に位置する高瀬の地には、越中国一宮を称する高瀬神社が鎮座している。広大な境内を歩くと、古杉の並木が空を覆い、その静謐な空気に身が包まれる。一宮とは、かつて律令制のもとで各国に一つと定められた、その国で最も社格の高い神社を指す。しかし、越中国(現在の富山県)には、高瀬神社の他にも射水神社、気多神社、雄山神社と、実に四つもの神社が一宮を称しているのだ。 これは全国的にも稀な例であり、この事実が訪れる者に問いを投げかける。なぜこの越中の地で、これほど多くの社が「一宮」の座を競い、あるいは分かち合ってきたのか。その背景には、何層にも重なる歴史と土地の事情がある。
高瀬神社の創建は古く、社伝によれば、遠く神代の昔、あるいは景行天皇の御代(約2000年前)にまで遡るとされる。主祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)、すなわち大国主命が北陸の地を開拓し終え、出雲へ帰る際に、自らの御魂を国魂神としてこの地に鎮め置いたのが始まりと伝えられる。 この伝承は、出雲と北陸の間に古くから深い関係があったことを示唆しており、能登の気多大社や高岡市の気多神社も同じ大己貴命を祀ることから、その信仰圏の広がりを窺い知ることができる。
奈良時代末期には、高瀬神社はすでに朝廷から認識されていた。宝亀11年(780年)には「続日本紀」に「越中国礪波郡の高瀬神を従五位下に叙す」と記され、その存在が公の歴史書に登場する。 その後も神階は累進し、「日本後紀」延暦14年(795年)には従五位上、「日本文徳天皇実録」斉衡元年(854年)には従三位、そして「日本三代実録」貞観元年(859年)には正三位へと昇叙された。 これらの神階昇叙は、越中国において最高位の神社として、朝廷からの厚い崇敬を受けていた証である。平安時代初期に編纂された「延喜式神名帳」にも「高瀬神社」として記載され、名実ともに格式ある古社としての地位を確立したのだ。
しかし、中世に入ると、戦乱の時代が訪れる。多くの社領荘園を有していた高瀬神社も、戦火によって荒廃し、その神威は一時衰退したという。 境内に残る「神子畑」や「大宮司」といった地名が、往時の繁栄をわずかに偲ばせるのみとなった。 転換期となったのは、江戸時代に入ってからである。加賀藩主前田家の篤い崇敬と保護を受け、高瀬神社は再興の道を歩み始める。 明治維新後もその格式は保たれ、明治6年(1873年)には県社、大正12年(1923年)には国幣小社に列せられた。 さらに大正13年(1924年)には摂政宮(後の昭和天皇)の勅使が参拝するなど、皇室国家からも厚遇された歴史がある。 こうした幾多の変遷を経て、高瀬神社は現代にまでその姿を伝えている。
高瀬神社が越中国において重要な位置を占め、一宮としての地位を確立した背景には、複数の要因が絡み合っている。一つは、その地理的条件である。神社が鎮座する砺波平野は、古くから稲作が盛んな肥沃な土地であり、この地域の開拓と五穀豊穣を願う人々の信仰のよりどころとして、高瀬神社の存在は不可欠であった。 主祭神である大国主命が「国造りの神」「農耕医術の法を授けた神」とされていることと、この地域の農業史は密接に結びついている。 実際に、天武天皇の時代には、農作物の病虫害に際して勅使が遣わされ、豊作を祈願したという記録も残る。
二つ目の要因は、古代における越中の政治的・文化的中心地との関連である。高瀬神社の南方には、国指定史跡である「高瀬遺跡公園」が広がる。 この遺跡は平安時代初期の荘園の事務を司る荘所の遺構とされ、当時の地方官衙風の掘立柱建物群が見つかっている。 これは、高瀬一帯が古代越中国の重要な拠点の一つであったことを示しており、地域の中心に位置する高瀬神社が自然と信仰を集め、その地位を高めていったと考えられる。
そして三つ目の要因は、出雲との深い信仰的繋がりである。大国主命を主祭神とすることからもわかるように、高瀬神社は出雲系の信仰が北陸に根付いた象徴的な存在だ。 日本海を介した古代の交流の中で、出雲の神々がこの地に迎えられ、地域の守り神として定着していったのだろう。大国主命が越の国で国土開発を行い、多くの女神と結ばれたという神話も、出雲勢力が日本海側の各地に影響を広げ、同盟関係を築いていった歴史的背景を反映していると解釈する説もある。 こうした神話や伝承が、高瀬神社の神聖性を補強し、人々の信仰をより強固なものにしたと考えられる。
これらの地理的、政治的、信仰的な要因が複雑に絡み合い、高瀬神社は越中国における最高位の神社としての地位を築き、その後の歴史の荒波を乗り越えて現代に至るまで、人々の崇敬を集め続けてきたのである。
越中国に複数の「一宮」が存在するという事実は、全国的に見ても珍しい。 通常、一国に一社とされる一宮が、なぜこの地では四社も並立しているのか。その背景には、越中国という広大な地域における政治的中心地の変遷や、時代の権力者による崇敬の対象の変化、そして近代の社格制度における認定の経緯が複雑に絡み合っている。
例えば、高岡市に鎮座する射水神社は、古くから二上山を神体山とする信仰を背景に持ち、特に越中国府が置かれた射水郡の有力神社であった。 一方、同じく高岡市伏木に位置する気多神社は、能登国一宮の気多大社からの勧請とも言われ、出雲系の信仰が深く関わっている。 そして、立山町に鎮座する雄山神社は、富士山・白山と並ぶ日本三霊山の一つである立山を神体とする山岳信仰の総本社であり、特に江戸時代に立山信仰が全国的に広まる中で、その圧倒的な知名度と経済力を背景に一宮を称するようになった。
これら高瀬神社を含む四社は、それぞれ異なる歴史的・地理的・信仰的背景を持ちながら「越中一宮」を称している。高瀬神社が砺波平野の開拓と五穀豊穣の守護神として、また出雲系信仰の中心として発展したのに対し、射水神社は国府の所在地としての権威、気多神社は能登からの信仰の波及、雄山神社は山岳信仰の隆盛という、それぞれの足場を築いてきたのだ。 この多様性は、越中国という地域が持つ広がりと、時代ごとの中心地の移り変わり、そして人々の信仰が常に一つの形に収まらなかったことを物語っている。単一の権威によって一宮が定められるのではなく、複数の有力な信仰が地域の中で共存し、それぞれが「一宮」としての役割を担ってきた姿は、越中という土地の多層的な歴史そのものと言えるだろう。
現代の高瀬神社は、その長い歴史と格式を保ちながらも、地域の人々にとって身近な存在であり続けている。主祭神である大国主命が「縁結びの神」としても知られることから、男女の縁だけでなく、仕事や子宝、家庭円満など、人生におけるあらゆる「縁」を願って、県内外から多くの参拝者が訪れる。 特に正月三が日には、約20万人もの人々が初詣に訪れ、境内は賑わいを見せる。
境内で目を引くのは、神話「因幡の白うさぎ」にちなんだ「なでうさぎ」の像だろう。 自分の治したい部位と同じ箇所を撫でるとご利益があるとされ、参拝者が優しく撫でる姿が絶えない。 また、社殿の随所には、地元・井波の伝統工芸である井波彫刻の粋を凝らした装飾が施されている。 特に功霊殿の本殿は、天保7年(1836年)に建立された旧本殿を移築したもので、その精緻な彫刻は市指定文化財となっている。 これは、神社が地域の文化や技術と深く結びついてきた証しであり、現代に生きる職人の技が、歴史ある社殿に新たな息吹を与えている。
毎年9月13日に行われる例祭は、地域にとって最も重要な行事の一つだ。 また、古くから続く特殊神事として、天武天皇の御代に起源を持つとされる祈年穀祭がある。 害虫駆除を祈願して忌火を分与し、田に点火するというこの祭事は、砺波平野が農耕によって栄えてきた歴史と、その守護神としての高瀬神社の役割を現代に伝えるものだ。
社殿は、第二次世界大戦終戦により国費での再建が中止された後、地域の崇敬者の熱意と寄進によって昭和22年(1947年)に本殿、翌年に拝殿が再建され、昭和62年(1987年)に向拝殿が完成した。 この経緯は、高瀬神社が単なる歴史的建造物ではなく、地域の人々の信仰と支えによって生き続けてきたことを示している。
越中国一宮としての高瀬神社の歴史を辿ると、単一の絶対的な権威ではなく、複数の信仰の拠点が共存してきた越中という土地の特性が浮かび上がる。高瀬神社は、その肥沃な土地と古代からの開拓の歴史、そして出雲系の神々との結びつきによって、砺波平野の中心的な信仰の場としての地位を確立した。それは、中央からの神階授与という形で権威付けられながらも、あくまで地域の人々の生活と深く結びついた存在であった。
他の三社がそれぞれ異なる背景を持つ中で高瀬神社が「一宮」を称し続けたことは、この土地において「一宮」という概念が、特定の政治的中心や権力者の意向だけでなく、地域ごとの固有の信仰の深さや歴史的経緯によって多様に解釈されてきたことを示唆している。それは、境界が曖常に明確であるとは限らない、古代から中世にかけての地方社会における信仰のあり方を現代に伝えるものと言えるだろう。高瀬神社の境内を吹き抜ける風は、そんな多層的な歴史の気配を運んでくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。