2026/6/8
丸岡城の歴史:霞ヶ城の堅牢さと奇跡の修復

福井の丸岡の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
福井県坂井市にある丸岡城は、1576年の築城以来、戦国の要衝から藩の拠点へと変遷した。北陸唯一の木造現存天守として、豪雪に耐える石瓦屋根や、福井地震からの奇跡的な復元が特徴。現代も「お天守」として親しまれ、地域の文化の中心となっている。
丸岡城の築城は、1576年(天正4年)にまで遡る。織田信長の命を受け、越前国の実質的な支配者であった柴田勝家の甥、柴田勝豊がこの地に城を構えたのが始まりであった。当時、越前は一向一揆の勢力が強く、また越後の上杉謙信との対峙もあったため、丸岡城は越前北部の要衝として軍事的に重要な役割を担っていたのである。
しかし、戦国の世はめまぐるしく移り変わる。1582年(天正10年)の本能寺の変後、織田家の覇権を巡る争いが激化し、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に敗れると、丸岡城の城主もまた変遷を繰り返すことになる。勝豊は近江国長浜城へ移り、その後、柴田家の重臣である安井家清、そして豊臣秀吉方の丹羽長秀の家臣である青山宗勝が城主となった。しかし、青山宗勝は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易されることとなる。
代わって越前国に入封した徳川家康の次男・結城秀康の家臣、今村盛次が丸岡城主となったが、福井藩の内紛に巻き込まれ失脚する。そして1613年(慶長18年)、徳川家康の重臣として「鬼作左」の異名を取った本多重次の子、本多成重が丸岡城主として入封した。成重は1624年(寛永元年)に福井藩から独立して丸岡藩を立藩し、初代藩主となる。丸岡城は、ここから明治維新に至るまで、本多家が4代、その後に入封した有馬家が8代にわたり居城とする、譜代大名の藩庁として定着していくのである。
丸岡城の天守については、長らく築城当時の1576年(天正4年)に建てられたものとされてきた。しかし、2019年(平成31年)に福井県坂井市教育委員会が発表した調査結果によれば、現在の天守は江戸時代初期の寛永年間(1624年頃)に建造されたものであることが判明している。築城当初の天守がどのような姿であったかは定かではないが、現在の天守が江戸時代初期の建築様式を今に伝える貴重な遺構であることに変わりはない。
丸岡城は「霞ヶ城」という別名を持つ。これは、戦時に敵が攻め寄せると城内の井戸から大蛇が現れて霞を吹き出し、城を隠して危機を救ったという伝説に由来するとされる。この伝説は、城が幾多の困難を乗り越えてきた歴史を象徴するかのようでもある。
その堅牢さは、建築様式からも読み取れる。天守の土台となる石垣は、自然石を加工せずに積み上げる「野面積み」という古い手法で築かれている。粗雑に見えるが、石と石の間に隙間が多いため排水性に優れ、豪雨でも崩れにくいという実用的な利点があった。高さは約6.2メートルに及ぶ。
そして、丸岡城の天守を特徴づけるのが、屋根を覆う約6,000枚の石瓦である。北陸の冬は豪雪に見舞われるため、通常の焼き物瓦では雪の重みや寒さで割れてしまうことがあった。そこで、福井県足羽山周辺で採掘される凝灰岩の一種である「笏谷石(しゃくだにいし)」が用いられたのだ。一枚20キログラムから60キログラムにもなる石瓦が屋根全体で約120トンもの重さとなり、雨に濡れると青みがかった色に変化するという独特の表情を見せる。現存する12天守の中で、屋根全体を石瓦で葺いているのは丸岡城のみであり、これは地域の自然条件に適応した建築技術の証と言えるだろう。
天守内部もまた、防御を意識した構造を持つ。外観は二重に見えるが、内部は三階建ての独立式望楼型である。特徴的なのは、通し柱がなく一階が二・三階を支える構造になっている点、そして観光客向けにロープが備え付けられているほどの急勾配(最高で67度)な階段である。これは敵兵の侵入を阻むための仕掛けであり、天守の壁には鉄砲や弓を放つための「狭間(さま)」や、石垣を登る敵に石を落とす「石落とし」なども設けられている。
明治維新後、廃城令によって全国の多くの城が解体される中、丸岡城もまた天守以外の大部分が取り壊された。しかし、天守だけは地元住民の熱意によって買い戻され、その姿を保つことになった。しかし、最大の試練は昭和の時代に訪れる。1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井地震である。震源地に近い丸岡は甚大な被害を受け、丸岡城の天守は石垣もろとも完全に倒壊してしまったのだ。
誰もがその復興は困難だと考えたが、当時の友影賢世町長をはじめとする地元住民の強い願いと、全国からの寄付によって、奇跡的な修復が成し遂げられる。倒壊した部材の70%以上(一説には75%以上、80%以上とも)を再利用し、1955年(昭和30年)に元の姿に組み直して再建されたのである。現存12天守の中で、完全に倒壊した状態から元の部材を再利用して修復されたのは丸岡城のみであり、この事実は「奇跡の修復城」と呼ばれる所以となっている。
丸岡城の天守が持つ建築的な特徴は、他の城郭と比較することで、その独自性がより鮮明になる。全国に現存する12の天守の中で、丸岡城は北陸地方に唯一残る木造天守である。その中でも、屋根全体を笏谷石の石瓦で葺いている点は、他の現存天守には見られない、丸岡城独自の要素である。これは、北陸の厳しい冬の豪雪に耐えるための実用的な工夫であり、その土地の気候条件が建築に直接影響を与えた好例と言える。瓦の代わりに石を用いるという選択は、美観よりも耐久性を優先した、堅牢さへの強い意識の表れではないだろうか。
また、天守台の石垣に見られる野面積みの手法や、内部の急階段、そして狭間や石落としといった防御設備は、戦国時代から江戸時代初期にかけての城郭建築が、いかに実戦を意識して築かれていたかを示すものだ。これは、後世に政治的な権威や美的な装飾が重視されるようになった近世城郭とは異なる、機能美を追求した姿と言える。
さらに、丸岡城の特筆すべき点は、1948年(昭和23年)の福井地震で完全に倒壊しながらも、旧部材の7割以上を再利用して復元された経緯である。これは、鉄筋コンクリートで外観のみを復元した城(例えば、名古屋城や大阪城など)とは一線を画す。倒壊した部材を一つ一つ回収し、可能な限り再利用して組み直すという作業は、単なる再建を超え、失われた歴史の痕跡を可能な限り留めようとする、並々ならぬ努力と文化財に対する深い敬意を伴うものであった。この「奇跡の修復」と呼ばれる過程は、建物そのものが持つ歴史的価値だけでなく、それを守り伝えようとした人々の情熱が形になったものとして、他の再建城とは異なる重みを持つ。
かつては「現存最古の天守」とされてきた丸岡城だが、近年の調査により江戸時代初期の寛永年間の築造と判明した。この「最古」の称号の有無は、城の歴史的価値を測る一つの指標ではあるが、その建築様式が古式であり、北陸唯一の現存天守であるという事実は揺るがない。丸岡城の歴史は、単なる時間の長さだけでなく、その時代ごとの人々の知恵と努力、そして困難に立ち向かう姿勢によって形作られてきたと言えるだろう。
現在の丸岡城は、地域の人々に「お天守」の愛称で親しまれ、その周辺は「霞ヶ城公園」として整備されている。春には約400本のソメイヨシノが咲き誇り、日本さくら名所100選にも選定される桜の名所となっている。桜が満開となる時期には「丸岡城桜まつり」が開催され、夜間にはライトアップされた桜と天守が幻想的な景観を生み出す。秋には武者行列や総踊りが繰り広げられる「丸岡古城まつり」も行われ、城は地域の文化的な活動の中心であり続けている。
丸岡城の歴史を語る上で欠かせないのが、「一筆啓上」の文化である。徳川家康の家臣である本多作左衛門重次が、陣中から妻に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙は、初代丸岡藩主となる本多成重(幼名:仙千代)の父によるものとされている。この手紙にちなみ、丸岡町(現在の坂井市)では1993年(平成5年)から「一筆啓上賞」という日本一短い手紙のコンクールが開催されている。毎年テーマを変えて募集され、国内外から多くの作品が寄せられるこのコンクールは、短い言葉に込められた深い思いを再認識させる機会となり、丸岡の町を象徴する文化として定着している。城のすぐそばには「一筆啓上 日本一短い手紙の館」が建てられ、過去の入賞作品が展示されている。
近年では、坂井市が2015年(平成27年)に国宝化推進室を設置し、丸岡城の国宝指定を目指す動きも活発化している。現存する木造天守であり、その歴史的価値は高く評価されているものの、さらなる文化財としての地位向上を目指す取り組みである。
一方で、歴史的建造物の保存には絶え間ない努力が伴う。2026年(令和8年)5月からは、丸岡城天守の大規模保存修理工事が開始された。約1年半にわたるこの修繕工事は、貴重な文化財を未来へ守り継ぐための重要な事業である。これに伴い、夜間に行われていたプロジェクションマッピング「ヒカリ結び」は一時休止となるが、これは城が常に生き物のように手入れされ、時代と共にその姿を維持していく過程の一部であると言えよう。
丸岡城の歴史をたどると、一つの建造物が持つ多層的な時間を読み取ることができる。戦国期の要衝として築かれ、江戸時代には藩の中心として整備され、そして近代の災害を乗り越えて再建された。そこには、軍事的な戦略、建築技術、そして何よりも、その土地に暮らす人々の強い思いが織り込まれている。
かつて「最古の現存天守」と称され、その後に築造年代が修正された経緯は、歴史の解釈が常に変化しうることを示唆する。しかし、それが江戸時代初期の建築様式を伝える貴重な木造天守であり、北陸地方に唯一残る現存天守であるという事実は変わらない。特に、福井地震で完全に倒壊しながらも、主要部材を再利用して復元されたという経緯は、単なる物理的な再建を超えた、地域社会の精神的な復興の象徴であった。それは、建物を単なるモノとしてではなく、地域を支える核として捉える人々の強い意志がなければ成し得なかったことだろう。
「一筆啓上賞」に見られるように、かつては軍事的な拠点であった城が、現代においては文化的な交流と創造の源泉となっている点も興味深い。本多作左衛門重次の短い手紙は、時を超えて人々の心に響き、新たな文化活動のきっかけを生み出している。これは、城が単なる過去の遺物ではなく、現代社会においても生き生きとした意味を持ち続ける可能性を示している。
現在進行中の大規模保存修理工事は、過去の修復の精神を受け継ぎ、丸岡城の姿を未来へ繋ぐための営みである。歴史的建造物は、完成した時点から劣化が始まる。それを守り、次世代に継承していくためには、絶え間ない手入れと、それを支える人々の意識が不可欠となる。丸岡城は、その堅牢な石瓦の屋根と、幾度もの困難を乗り越えてきた歴史を通して、物理的な構造だけでなく、そこに関わった人々の記憶や、そこから生まれた文化が、いかにその土地の歴史を深く形作っているかを静かに物語っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。