2026/6/7
富山城はなぜ「浮城」と呼ばれた?水害と売薬が築いた街の歴史

富山の街の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
富山の街は、神通川の氾濫と治水、そして越中売薬という独自の産業によって発展してきた。戦国時代の「浮城」と呼ばれた富山城から、近代的な都市へと変貌を遂げた経緯を、水との関係性に着目して辿る。
富山の街を歩くと、至るところで水を感じる。街の東側を流れる神通川、その旧流路である松川、そして遠くに見える富山湾。平野の広がりと、背後に控える立山連峰からの豊かな水が、この土地の歴史を形作ってきたことは明らかだ。しかし、この水との関係は、常に恵みだけをもたらしたわけではない。度重なる水害、そしてそれを克服するための大規模な治水事業。富山の街は、水とどのように対峙し、共生してきたのか。その歴史をたどることは、この土地固有の姿を解き明かすことに繋がるだろう。
富山に城が築かれたのは、戦国時代の天文12年(1543年)に、越中の武将である神保長職によるものとされる。城の縄張りは家臣の水越勝重が行ったと伝えられている。 当時の富山城は、神通川の流れを防御に利用したことから「浮城」とも称され、その難攻不落ぶりを物語る逸話も残る。 しかし、その立地ゆえに、この城は越後長尾氏(上杉氏)や一向一揆、佐々成政、前田利長といった有力大名による争奪の舞台となり、目まぐるしく支配者が変わる時代が続いた。
江戸時代に入り、寛永16年(1639年)に加賀藩2代藩主・前田利常の次男である前田利次が富山藩10万石の初代藩主として入城したことで、富山は前田家の分家が治める城下町として定着する。 当初、利次は百塚に新たな城を築く構想を持っていたものの、藩の財政が許さず、最終的に富山城を居城とすることになった。 万治4年(1661年)には幕府の許しを得て富山城の本格的な修復と城下町の整備に着手し、これが明治維新まで続く富山前田家13代の統治の基礎となったのである。 この時期に、神通川の流れが城の防御を兼ねる構造が確立され、街の骨格が形成されていった。
富山の歴史を語る上で欠かせないのが「越中売薬」の存在だ。その起源は江戸時代の元禄3年(1690年)に遡る。 富山藩2代藩主の前田正甫が参勤交代で江戸城にいた際、急な腹痛に苦しむ大名に自ら持参していた妙薬「反魂丹」を与えたところ、たちまち回復したという逸話が残る。 これに驚いた諸大名が自領での販売を懇請したことがきっかけとなり、正甫は領内で反魂丹を製造させ、全国へ行商させることを決断した。 当時の富山藩は度重なる河川の氾濫で財政が逼迫しており、正甫はこの売薬業を殖産興業政策の柱として積極的に保護・育成したのだ。
「先用後利」と呼ばれる独特の販売システムも特徴的だった。 これは、薬を先に顧客に預け、次回訪問時に使用した分だけ代金を受け取るというもので、医療が未発達だった時代において、人々の利便性を高め、全国的な信頼関係を築くことに成功した。 売薬商人は顧客台帳「懸場帳」を携え、定期的に各地を巡回し、薬の補充や健康アドバイスを行ったという。 この売薬業は富山藩の財政を潤すだけでなく、明治維新後には藩の統制から解放された売薬資本が、金融機関、水力発電、鉄道、各種製造業など、多岐にわたる近代産業の基盤を築く原動力となった。
一方で、街の中心を蛇行して流れる神通川は、富山の発展に貢献する水運をもたらすとともに、頻繁な洪水という脅威を与え続けた。特に明治29年(1896年)には4度も氾濫し、富山市の4分の3が濁流に洗われる惨事となった。 このため、明治34年(1901年)から36年(1903年)にかけて、神通川の流路を直線化する「馳越線(はせこしせん)工事」という大規模な治水事業が行われた。 この工事によって、旧神通川の広大な廃川地が生まれ、後の富山市の発展を大きく左右することになる。 廃川地は埋め立てられ、現在の県庁や市役所、NHKなどが建ち並ぶ富山市の中心部へと変貌し、旧流路の一部は松川として残された。
富山の歴史は、水との関係性において、他の地域とは異なるいくつかの特徴を持つ。まず、神通川の「馳越線工事」に代表される大規模な河川改修は、都市の発展と治水を両立させるための、当時の日本でも先駆的な取り組みであった。 通常、河川の付け替えは自然な流れに任せるか、小規模な手直しにとどまることが多いが、富山では都市計画と一体となった大規模な流路変更が、明治期に県主導で行われたのである。 これにより生まれた広大な廃川地を都市の中心部に転用した事例は、全国的にも珍しい。
また、越中売薬に代表される「配置販売業」は、各地の城下町で栄えた特産品とは一線を画す。城下町が自領内での消費や特定ルートでの流通を重視したのに対し、富山売薬は「領外勝手」の触れを出し、全国各地へ行商に出向くことを藩が奨励した。 これは、財政難の藩が、自らの資源(薬草や製薬技術)と人的ネットワーク(売薬商人)を最大限に活用し、広域経済圏で収益を上げることを目指した結果である。このような藩主主導の広域流通戦略は、他の地域の専売品とは異なる特徴を示している。
さらに、富山平野の西部、砺波平野に広がる「散村」の景観も、水との関係を象徴する。 これは、扇状地という地形的特性と、庄川の豊かな水利を活かした独自の開拓形態に由来する。 洪水ごとに流路を変える庄川の特性から、農民たちは安全な微高地に分散して屋敷を構え、用水路を引いて周囲の田を耕した。 このように、富山は都市の中心部から周辺の農村部に至るまで、水害との闘いと水利の確保が、人々の暮らしと景観、そして産業のあり方を根本的に規定してきた。
昭和20年(1945年)8月2日未明、富山市は米軍による大規模な空襲に見舞われた。 B29爆撃機174機が飛来し、中心部に50万発以上の焼夷弾を投下。 市街地の99.5%が焼失し、約2,700人以上の死者、約11万人の被災者を出した。 これは地方都市としては人口比で最も高い焼夷率とされている。 街は一瞬にして焦土と化し、戦後の富山はゼロからの復興を余儀なくされたのである。
しかし、富山の人々は焦土の中から立ち上がった。戦災復興都市計画が策定され、焼け野原となった市街地は、区画整理によって近代的な都市へと再建されていった。 富山港もまた、その歴史の中で変遷を遂げてきた。江戸時代には神通川の流路変更により東岩瀬に港が形成され、北前船の寄港地として栄えた。 しかし、汽船の時代になると、河口港ゆえの土砂堆積に悩まされ、大型船に対応できなくなった。 大正15年(1926年)には、港を神通川から分離する大規模な工事が完成し、近代港湾としての基盤が築かれた。 昭和9年(1934年)には富岩運河が完成し、運河沿岸には工業地帯が造成されていった。 現在の富山港は、国際貿易港として、特にロシア向けの中古車輸出では全国有数の取扱量を誇る。
富山の街の歴史を紐解くと、そこには常に「水」の存在があった。神通川の氾濫と治水、そしてその結果生まれた廃川地を都市の中心へと変貌させた大胆な都市計画。 あるいは、富山湾を介した北前船交易、そして売薬という独自の産業を全国に広めるための流通網。 これらは単なる地理的条件や偶発的な出来事ではなく、富山という土地が、水という圧倒的な自然条件とどのように向き合い、それをいかに自らの力に変えてきたかを示す具体的な証左である。
川の付け替えによって生まれた松川の穏やかな流れは、かつての暴れ川の面影をほとんど残さない。しかし、その川沿いに立つ常夜燈は、かつてここに舟橋が架けられ、激しい水の流れが存在したことを静かに物語っている。 また、神通川の旧流路が現在の富山県庁や市役所の敷地になっているという事実は、この街が水害の記憶の上に築き上げられたことを示唆する。富山の街は、水との対峙と共生、そしてそこから生まれた産業と復興の歴史を、都市の景観そのものに刻み込んでいるのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。