2026/6/27
琵琶湖を巡る戦国・江戸時代の覇権と近江商人の「三方よし」

滋賀県の歴史について詳しく教えて欲しい。戦国・江戸時代。
キュリオす
滋賀県の琵琶湖は、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉らが支配を争った戦略拠点であった。江戸時代には徳川家康が築いた城下町と丸子船による水運が発展し、近江商人の「三方よし」の精神が育まれた。
湖畔に渦巻いた戦国の風
近江国、現在の滋賀県は、古くから畿内と東国・北国を結ぶ交通の要衝であった。特に琵琶湖は、単なる地理的障壁ではなく、軍事・物流の大動脈として機能していたのである。中世には堅田衆などの水運勢力が湖上交通を掌握し、時に海賊まがいの活動を行うこともあったという。 戦国時代に入ると、この湖上権の掌握こそが、天下取りを目指す武将たちの喫緊の課題となった。
織田信長は永禄12年(1569年)頃から琵琶湖の水運支配に乗り出し、廻船行の継続を保証することで湖上交通の秩序を築き始めた。彼は天正4年(1576年)、琵琶湖東岸に安土城を築き、その城下町を整備した。安土城は、京への経路を抑え、琵琶湖の水運を直接的に管理する拠点として機能したのである。 この信長の戦略は、琵琶湖が単なる水路ではなく、政治・経済・軍事のすべてを統括する中心地であることを示したと言えるだろう。
本能寺の変で信長が倒れた後、近江は再び激しい争奪の舞台となる。天正11年(1583年)4月に起こった賤ヶ岳の戦いは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が織田信長の後継者の座を巡って激突したもので、現在の長浜市賤ヶ岳付近がその主戦場となった。 琵琶湖と余呉湖に挟まれたこの地で、秀吉軍は勝家軍を打ち破り、この勝利が秀吉の天下人への道を決定づけた。 この戦いでは、後の五奉行の一人となる石田三成が諜報役として活躍したとされている。
秀吉はさらに琵琶湖の重要性を認識し、天正13年(1585年)には八幡山城を築城した。 甥の豊臣秀次が近江43万石を与えられ、安土城に代わる新たな拠点として、八幡山に総石垣の山城と城下町を整備したのである。 八幡山城の麓には八幡堀が掘られ、琵琶湖の船を寄港させることで商業の振興を図った。 この八幡の地は、後に全国を駆け巡る「近江商人」の活動の先駆けともなった。 また、秀吉は天正14年(1586年)から15年(1587年)にかけて「大津百艘船」を組織し、大津からの物資と人の輸送を独占する特権を与え、琵琶湖水運の中心的役割を担わせた。
関ヶ原の戦い(1600年)の前哨戦として、近江国では大津城攻防戦が繰り広げられた。東軍に加担した京極高次が大津城に籠城し、西軍の大軍を相手に奮戦したのである。 最終的には開城・退去を余儀なくされたものの、この籠城戦が西軍の足止めとなり、関ヶ原での東軍の勝利に間接的に貢献したという見方もある。
家康が築いた湖上の要衝
関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を掌握すると、近江国の支配体制は大きく転換した。家康は、琵琶湖の要衝を抑えるために、譜代大名を配置し、新たな城を築かせたのである。
慶長5年(1600年)、徳川四天王の一人である井伊直政は、関ヶ原の戦いの功績により上野高崎から近江佐和山城に18万石で入封した。 直政は石田三成の居城であった佐和山城を嫌い、琵琶湖岸に新たな城の建設を計画したが、慶長7年(1602年)に戦傷が元で死去した。 その後、子の直継(直勝)の代に彦根山に新城の建設が始まり、慶長11年(1606年)に彦根城が完成し、井伊家は彦根に移った。 彦根藩は、江戸時代を通じて近江国北部を中心に30万石(幕末・江戸初期を除く)を領し、譜代大名筆頭として幕府の要職を歴任した。 彦根城は、徳川方最大の兵粮米を備蓄する軍事拠点であり、畿内・西国諸勢力への押さえという重要な役割を担っていた。
一方、琵琶湖南端、京都への入口にあたる大津の地にも、家康は新たな城を築かせた。関ヶ原後に廃城となった大津城に代わり、慶長6年(1601年)頃から膳所崎に膳所城が築かれたのである。 築城の名手と謳われた藤堂高虎が縄張りを担当し、本丸と二の丸が琵琶湖に突き出た水城として完成した。 初代藩主には戸田一西が3万石で入封し、これが膳所藩の始まりである。 膳所藩はその後、本多家、菅沼家、石川家と短期間で藩主が交代したが、慶安4年(1651年)に本多家が再封されて以降、廃藩置県まで当地を治めた。 膳所藩は、京都への玄関口を抑えるという戦略的な役割を担い、歴代藩主家はいずれも譜代大名であった。
江戸時代に入ると、琵琶湖の水運は引き続き重要な役割を果たした。特に「丸子船」と呼ばれる琵琶湖独自の和船が、湖上交通の主役となった。 丸子船は、湖の環境に合わせて独自に発達した帆走の木造船で、船幅が狭く喫水が極めて浅いのが特徴である。 船体脇には「オモギ」と呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特の構造を持っていた。 江戸時代中期には、琵琶湖全体で1300隻から1400隻以上の丸子船が湖上を往来し、北陸地方の米や紅花、昆布などの物資が敦賀から塩津港を経て丸子船で大津・堅田まで運ばれ、そこから京都や大坂へと陸送されたのである。 琵琶湖沿岸には120もの港があったとされ、その中でも大津と塩津は特に多くの船を所有し、水運の中心地として栄えた。
湖が育んだ商いの道
滋賀、すなわち近江の地が果たした役割は、単なる軍事拠点や交通の要衝にとどまらなかった。琵琶湖という広大な内陸の「海」がもたらした水運の利便性と、東西南北を結ぶ陸路の交差が、この地から特異な商業文化を育む土壌となった。
他の地域の商業と比較すると、近江商人の特徴は「行商」を基盤とした全国展開と、その経営理念にある。例えば、大坂商人が都市部に店舗を構え、為替や金融を駆使して巨大な経済圏を築いたのに対し、近江商人は本宅を近江に置き、天秤棒を担いで他国へ出向き商いを広げた。 高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人など、地域によって活動時期や進出地域、取り扱い品目に違いはあったものの、彼らは「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の理念を共有していた。 これは、自社の利益だけでなく、顧客の利益、さらには社会全体の利益にも貢献する商売を目指すというもので、現代の企業の社会的責任(CSR)にも通じる思想である。
この「三方よし」の精神は、単なる道徳論ではなく、厳しい競争環境の中で信用を築き、持続的に商売を続けていくための実用的な哲学でもあった。彼らは、薄利多売を基本とし、質素倹約を旨としつつ、顧客への奉仕を重視した。 また、成功した商人が故郷に学校を建てたり、橋を架けたりといった陰徳善事(人知れず善行を積むこと)を重んじたのも、この世間よしの実践であった。
琵琶湖の湖上交通も、近江商人の活動を支える重要なインフラであった。丸子船は、北陸から運ばれる海産物や米を京・大坂へ、逆に京・大坂からの綿や醤油、反物などを北陸へと運ぶ役割を担った。 しかし、江戸時代中期に河村瑞賢が東廻り・西廻り航路を整備し、日本海から瀬戸内海を経て大坂へ直行する海上水運が発達すると、陸路を併用しなければならない琵琶湖水運の相対的な重要性は低下していった。 この変化は、琵琶湖を介した物流の特権が薄れることを意味したが、近江商人はそれに代わる新たな商機を見出し、北海道の開拓や漁場の開発にまで乗り出す者も現れた。
湖の恵みと商いの精神
江戸時代、近江国は彦根藩、膳所藩といった譜代大名の領地と、幕府直轄領が混在する地域であった。彦根藩は石高30万石を誇り、徳川家康の信任厚い井伊家が治めた。 彦根城下町には、多くの武士や町人が暮らし、城下全体で3万人以上の人口を擁していたと推定されている。 膳所藩もまた、琵琶湖の要衝を抑える重要な役割を担っていた。
近江商人たちは、このような体制下で独自の商圏を築き上げた。例えば、八幡商人は豊臣秀次の八幡山城下町建設を契機に発展し、畳表や蚊帳といった地場産品を商材として、早い時期から江戸に進出し、蝦夷地開拓にも携わった。 日野商人は、特産品の日野椀や医薬品の行商から始まり、後には醸造業を営む者も多く出た。 湖東商人は、彦根藩の麻織物生産奨励策と農民の商業活動許可を背景に、農閑期に行商に出る農民から発展した。
彼らは単に商品を売買するだけでなく、行った先に支店を設けて定着したり、地域の産業育成に貢献したりと、その活動は多岐にわたった。北海道では、ニシンやコンブなどの海産物を買い付け、自分たちの持ち船である「松前船」で京都や大阪へ運び、逆に衣料品や雑貨などを北海道へ運ぶ往復取引で繁栄した。 このように、近江商人の活動は、日本の経済発展に大きな影響を与え、明治以降には伊藤忠商事や西武グループの創始者など、現代の大企業へと繋がる系譜も生み出したのである。
琵琶湖の湖上交通は、近江商人の活躍を支える基盤であると同時に、地域の人々の生活に密着したものでもあった。江戸時代中期には約120の港に約6000艘の船があったとされ、その多くが丸子船であった。 丸子船は、北陸からの物資輸送だけでなく、湖岸の村々を結ぶ日常の足としても利用された。 湖岸の農村では、農作業のために田舟が頻繁に利用され、今日のマイカーのように各戸に普及していたという。 琵琶湖から刈り取った藻や湖底の泥を肥料として活用するなど、湖は人々の生活と生業に深く結びついていたのである。
湖が語る歴史の奥行き
滋賀県の戦国から江戸時代にかけての歴史を振り返ると、琵琶湖という存在が常にその中心にあったことが見えてくる。この広大な湖は、時に天下取りの戦略拠点として、時に経済の大動脈として、そして時に人々の暮らしを支える生活の場として、多様な顔を持っていた。
戦国期の近江は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康といった天下人が覇権を争う最前線であった。安土城や八幡山城、そして彦根城や膳所城といった堅固な城郭が、琵琶湖を巡る権力闘争の証として築かれた。これらの城は、湖の水運を支配し、京への道を確保するための戦略的要衝であったのだ。琵琶湖は単なる地理的な境界線ではなく、軍勢や物資を迅速に移動させるための「道」として機能した。
江戸時代に入ると、戦乱は収まり、琵琶湖は物流の要としての役割を一層強めた。丸子船による湖上交通は、北陸と京・大坂を結ぶ重要なルートとして機能し、近江商人という独自の商業文化を育んだ。彼らの「三方よし」の精神は、単なる商売の心得に留まらず、地域社会への貢献や持続可能な経済活動の先駆けとして、今日の視点から見ても示唆に富むものがある。
現代において、琵琶湖の湖上交通は観光船やレジャーが主となり、かつての物流の大動脈としての役割は失われた。 しかし、湖のほとりに立つと、その水面の下には、戦国の武将たちが天下を夢見て駆け巡った痕跡や、近江商人たちが天秤棒を担いで行き交った活気が、静かに沈殿しているように感じられる。琵琶湖は、ただそこにあるだけでなく、その水が歴史の営みを深く記憶しているかのようだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 湖上水運の歴史koti.jp
- 琵琶湖の関所と湖上交通の歴史:中世の物流と権力のせめぎ合い|松尾靖隆note.com
- shiga.lg.jppref.shiga.lg.jp
- 賤ヶ岳の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイトtouken-world.jp
- 賤ヶ岳の戦い - Wikipediaja.wikipedia.org
- 昇龍道 SAMURAI Storygo-centraljapan.jp
- 賤ヶ岳古戦場 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!biwako-visitors.jp
- 義勇と涙のドラマが生まれた戦場の跡を参る旅|賤ヶ岳合戦エリア|豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市nagahama-sengoku.jp