2026/6/2
偕楽園の梅はなぜ多い?藩主・斉昭の思想が息づく庭園

偕楽園はどういう庭園なのか?なぜ梅がたくさん植えられているの?
キュリオす
水戸の偕楽園は、日本三名園の中でも異彩を放つ。藩主・徳川斉昭が「一張一弛」の教育理念に基づき、実用性と象徴性を兼ね備えた梅を多数植栽した背景を探る。領民との共有を意図した庭園思想に迫る。
水戸の偕楽園を訪れると、まずその広大さに驚かされる。しかし、より印象的なのは、視界の多くを占める梅の木々だろう。全国に名園と呼ばれる場所は数あれど、これほどまでに特定の樹木が庭園の顔となっている例は珍しい。日本三名園の一つに数えられながら、その趣は京都の寺院に見られる枯山水とも、金沢の兼六園のような回遊式庭園とも一線を画す。なぜ水戸のこの地に、これほどまでの梅が植えられた庭園が生まれたのだろうか。
偕楽園は、水戸藩第九代藩主である徳川斉昭によって、1842年(天保13年)に開園した庭園である。斉昭は水戸学を背景に持ち、藩政改革に強い意欲を燃やした人物として知られる。当時、藩士を教育する藩校「弘道館」を創設した斉昭は、その教育方針と一体となる形で偕楽園の建設を進めた。弘道館が文武両道の修練の場であったのに対し、偕楽園は「一張一弛(いっちょういっし)」、つまり緊張と緩和を使い分け、心身を休ませる場所と位置づけられたのだ。
単なる休憩所ではなく、斉昭の思想が強く反映されている点が偕楽園の特色である。当時の大名庭園の多くが藩主個人の鑑賞や賓客をもてなす場であったのに対し、偕楽園は藩士とその家族、さらには領民にも開放されたという。これは、民と苦楽を共にするという斉昭の政治理念の表れでもあった。園内には藩主が詩歌を詠んだり、家臣と交流したりした「好文亭」が設けられ、その名は梅の異称である「好文木」に由来する。好文亭から見下ろす梅林は、斉昭が描いた理想の風景そのものだったのだろう。
偕楽園に梅がこれほど多く植えられた背景には、複数の理由が複合的に絡み合っている。まず一つは、その実用性である。斉昭は、非常時に梅の実を食料として活用することを考えていたという。梅の実は保存食となり、その効能も高く評価されていた。園内には現在も約100品種、3000本もの梅が植えられており、その多くは実を結ぶ品種である。これは単なる観賞用として梅を選んだのではない、現実的な視点があったことを示している。
二つ目の理由は、梅が持つ象徴的な意味合いである。梅は厳しい冬の寒さの中でいち早く花を咲かせ、春の訪れを告げる。この姿は、逆境に耐え、やがて来るべき時に備える文武両道の精神、すなわち水戸学の教えと深く結びついていた。斉昭は、梅の花を愛でることで、藩士たちに忍耐力や清廉さを育んでほしいと願ったのだ。また、梅の香りは邪気を払い、心を清める力があると信じられていたことも、梅が選ばれた理由の一つに挙げられるだろう。
さらに、当時の水戸藩が置かれた政治的状況も無視できない。幕末の動乱期にあって、斉昭は藩の自立と強化を目指していた。その中で、梅は質実剛健な水戸藩の気風を体現する花として、象徴的な意味合いを帯びていたと考えられる。園内の梅林は、単なる美しい風景ではなく、藩主の思想と藩の未来への願いが込められた場所だったのだ。
日本三名園といえば、金沢の兼六園、岡山の後楽園、そして水戸の偕楽園が挙げられる。しかし、これら三つの庭園はそれぞれ異なる性格を持つ。兼六園は池泉回遊式の大名庭園として、四季折々の景観を「兼ね備える」ことに主眼が置かれ、広大な敷地に様々な要素が凝縮されている。後楽園もまた、池や築山、茶室などを配した回遊式庭園であり、藩主の静養や賓客の接待に使われた。どちらも精緻な作庭技術と、観賞用の美しさを追求した結果がそこにある。
これに対し、偕楽園は梅に特化した景観が際立っており、また「偕楽」という名が示す通り、領民との共有を前提とした思想がその根底にある点で、他の二園とは一線を画す。兼六園や後楽園が「美」を追求した芸術作品だとすれば、偕楽園は「思想」を具現化した空間と捉えることができるだろう。斉昭は、庭園を単なる鑑賞の対象ではなく、藩政改革や教育理念を実践するための装置として捉えていた節がある。その意味で、偕楽園は三名園の中でも「異端」とも言える存在であり、そこに水戸藩独自の気風が色濃く反映されているのだ。
現代の偕楽園は、水戸のシンボルとして、年間を通じて多くの人々が訪れる観光地となっている。特に2月から3月にかけて開催される「梅まつり」の時期には、園内は咲き誇る梅の花と、その香りに包まれる。様々な品種の梅が時期をずらして開花するため、比較的長い期間、花を楽しむことができるのも特徴だ。好文亭は戦災で焼失したが、1958年(昭和33年)に復元され、当時の趣を伝えている。
園内には、梅林だけでなく竹林や杉林も配され、陰と陽、静と動のコントラストが意識されている。これは、斉昭が「一張一弛」の思想を具現化しようとした名残でもあるだろう。偕楽園は、その広大な敷地と梅の多さから、自然公園的な要素も強く持つ。観光客は、ただ美しい景色を眺めるだけでなく、園内を散策しながら、藩主がこの地で何を考え、何を伝えようとしたのか、その哲学の片鱗に触れることができるのだ。
偕楽園がこれほど梅に満たされているのは、単に梅が美しいからという理由だけではない。そこには、徳川斉昭という一人の藩主が抱いた、教育、政治、そして非常時への備えという多角的な思想が凝縮されている。梅の実用性と、厳しい冬に先駆けて花を咲かせる精神的な強さが、水戸藩の理想像と重なったのだ。
日本三名園という枠組みの中で見ると、偕楽園は他の二園のような純粋な観賞美とは異なる、ある種の「機能性」と「公共性」を帯びた異質な存在として浮かび上がる。しかし、その異質性こそが、この庭園が持つ独自の魅力であり、藩主の哲学が時代を超えて伝わる稀有な場であることを示している。水戸の地に立つとき、梅の香りは、単なる花の香りではなく、一人の為政者が未来を見据えて植え付けた思想の香りを運んでくるように感じるのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。