2026/6/5
戸田の渡しからオリンピック会場へ、荒川と共に歩んだ戸田の歴史

埼玉の戸田の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
埼玉・戸田市は、中山道の要衝「戸田の渡し」として栄え、荒川の治水と河川改修を経て、東京オリンピックの舞台となった戸田漕艇場が建設された。かつてのサクラソウの名所「戸田ヶ原」の記憶と共に、現代の都市空間へと発展を遂げた歴史を辿る。
埼玉県の南端に位置する戸田市を訪れると、目に飛び込むのは広大な荒川の河川敷と、その先に伸びる直線的な水路、戸田漕艇場である。東京オリンピックの舞台ともなったこの場所は、現代の戸田を象徴する風景の一つと言えるだろう。しかし、この平坦な土地が、かつては江戸と京を結ぶ主要街道の要衝であり、激しい水流に翻弄され続けた歴史を持つことは、その穏やかな水面からは想像しにくい。なぜ、この地は荒川と共にその姿を変え、独特の歴史を刻んできたのか。その問いを抱きながら、水辺の記憶を辿ることにする。
戸田の歴史を語る上で欠かせないのが「戸田の渡し」である。中山道は江戸と京を結ぶ五街道の一つであり、その出発点である日本橋から数えて、荒川を渡る最初の難所がこの渡しだった。文献によれば、天正年間(1573~1591年)には既に存在していたとされ、江戸時代初期の慶長7年(1602年)に中山道が整備されると、幕府公認の渡船場としてその重要性を増した。
江戸幕府は、防衛上の理由から荒川に橋を架けることを禁じていたため、中山道を往来する人々は船による渡しに頼るしかなかったのだ。 渡船場は現在の戸田橋からおよそ100メートル下流に位置し、江戸の日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあったため、交通の要衝として賑わった。 寛保2年(1742年)には3艘だった渡し船が、中山道の交通量増加に伴い、天保13年(1842年)には13艘にまで増えたという記録が残る。 また、渡船場は単なる交通路としてだけでなく、荒川を利用した舟運の一大拠点としても機能した。安永元年(1772年)には幕府公認の「戸田河岸場」となり、天保3年(1832年)には5軒の河岸問屋が近隣の商人との取引を手広く行っていたことが分かっている。 この賑わいは、渓斎英泉の浮世絵「木曽街道六拾九次」にも描かれ、当時の情景を今に伝えている。 戸田の渡しは明治8年(1875年)に木橋の戸田橋が架けられるまで、300年以上にわたりその役割を担い続けたのだ。
戸田の渡しが中山道の要衝として栄えた背景には、荒川という大河の存在と、江戸防衛という幕府の政策が深く関わっている。橋が架けられなかったことで、この地は必然的に船による交通と物流の拠点となった。下戸田村が渡船場の管理を担い、船頭や小揚人足が働くことで、地域経済が形成されていった様子がうかがえる。 荒川は肥沃な土壌をもたらす一方で、しばしば氾濫を引き起こし、地域住民は常に治水に悩まされてきた。
明治時代に入り、近代化の波が押し寄せると、荒川の治水と交通網の整備が喫緊の課題となる。明治8年(1875年)に初代の戸田橋が完成し、長きにわたる戸田の渡しの歴史に幕が下ろされた。 その後も戸田橋は架け替えを繰り返し、昭和7年(1932年)には鉄橋の3代目、昭和53年(1978年)には現在の4代目戸田橋が完成している。
さらに、戸田の地を大きく変えたのが、荒川の河川改修に伴う付帯工事として行われた「戸田漕艇場」の建設である。昭和12年(1937年)に起工式が行われたこの漕艇場は、幻に終わった1940年東京オリンピックのボート競技会場として計画されたものだった。 戦争によってオリンピック開催権は返上されたものの、治水対策としての役割もあったため、工事は規模を縮小しつつも継続され、昭和15年(1940年)に「戸田オリンピック・コース」として竣工した。 戦後、一度は競艇場として利用されたものの、昭和39年(1964年)の東京オリンピックで再びボート競技会場に選ばれ、コースの拡幅工事などが行われた。 このように、戸田の地は荒川の治水という現実的な要請と、オリンピックという国際的な舞台が重なり合うことで、その姿を大きく変えていったのである。
中山道の要衝として栄えた戸田と、現代の戸田の姿を比較する上で、荒川を巡る他の地域の歴史に目を向けることは有益である。例えば、東海道の難所であった大井川の渡しは、川越制度によって大名行列が川を渡る際に人足が担ぎ、旅人が馬に乗って渡るという独特の形態をとった。戸田の渡しが船による渡航を主としたのに対し、大井川は徒渉(かちわたり)が原則であり、水量によって渡渉できない「川留め」が頻繁に発生した。これは、江戸から離れた場所での防衛と、川の自然条件が大きく影響した結果と言える。一方、戸田は江戸に近く、防衛上の理由から「橋を架けない」という政策が徹底されたことが、渡し場の発展を促した。
また、戸田の歴史を語る上で忘れてはならないのが、かつて荒川沿いに広がっていた「戸田ヶ原」の存在である。江戸時代には、見渡す限りのサクラソウが咲き誇る名所として知られ、多くの人々がお花見に訪れたという。 しかし、大正時代に入ると、花摘みによる減少に加え、都市化の進展に伴い、昭和20年(1945年)頃にはその姿を消してしまった。 かつては湿原であり、トダスゲのような固有種も生育していた戸田ヶ原は、河川改修や開墾によって失われた原風景の象徴でもある。 現在、戸田市では失われた戸田ヶ原の自然を取り戻すための再生事業に取り組んでおり、これは、開発によって失われた自然と歴史への再評価の動きとも言えるだろう。
昭和41年(1966年)に市制を施行した戸田市は、荒川と東京オリンピックの遺産を基盤として、現代の都市へと発展を遂げてきた。 戸田漕艇場は、1964年の東京オリンピック後も、ボート競技の主要な練習場および大会会場として利用され続けている。 東西約2.5kmに及ぶこの人工水路は、ボートレース戸田の競艇場としても機能し、現在も多くのファンを集めている。
昭和60年(1985年)に埼京線が開通すると、戸田市は都心へのアクセスが格段に向上し、東京近郊の典型的な住宅都市として人口が急増した。 現在、市の人口は14万人を超え、多くの若い世代が移り住む活気ある街となっている。 戸田橋をはじめとする荒川に架かる橋梁群は、東京と埼玉を結ぶ交通の要衝として、その役割を強化している。新大宮バイパスや美女木ジャンクションといった広域交通網の整備も進み、物流拠点としての利便性も高まっている。 かつての渡し場や河岸場が、現代の幹線道路や鉄道に姿を変え、人や物の流れを支えている構図は、時代は変われど変わらない戸田の立地条件の重要性を示していると言える。
戸田の歴史を辿ると、常に荒川という存在が中心にあったことが見えてくる。江戸時代には、江戸防衛という政治的意図から橋が架けられず、渡しが発展した。この渡しは単なる交通手段に留まらず、物資の集散地としての経済活動を生み、地域社会の基盤となった。明治以降の近代化は、荒川の治水という課題を前面に押し出し、その過程で偶然にも国際的なスポーツイベントの舞台となる漕艇場が生まれた。
かつてサクラソウが咲き乱れた戸田ヶ原が失われ、その再生が試みられている現代の姿は、水辺の自然と人間の営みが常に変化し、対話し続けてきた証左である。戸田の歴史は、決して一枚岩ではない。そこには、自然の猛威と向き合い、政治の思惑に翻弄され、そして時代ごとの必要に応じて自らの姿を変えてきた人々の姿がある。荒川の流路がたびたび変わったように、戸田のアイデンティティもまた、常に揺れ動き、再構築されてきたのだ。現在の戸田の風景は、過去の水門の記憶と、未来へ向かう水路の姿が重なり合う場所として、静かに存在している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。