2026/6/26
なぜ松阪から「古事記伝」が生まれたのか?豪商の町と本居宣長の知性

松坂と本居宣長について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
江戸時代、商人の町として栄えた松阪。その地で町医者として生きた本居宣長は、35年をかけて『古事記伝』を完成させた。本記事では、松阪の経済的背景と宣長の学問の関係性を辿る。
豪商の影と鈴の音
松阪の駅を降りて西へ歩き出すと、道はすぐに整然とした碁盤の目へと吸い込まれていく。かつての城下町であり、日本を代表する豪商たちが拠点を置いたこの町には、特有の静謐さが漂っている。高い黒板塀が続く路地を歩いていると、ここが「商売の町」であることを忘れてしまいそうになるが、その静けさこそが、江戸時代にこの地が蓄積した膨大な富の証左でもある。
多くの旅人がこの町を訪れる目的は、二つに大別されるだろう。一つは「松阪牛」という現代のブランドであり、もう一つは本居宣長という、江戸期最大の知性の一人が遺した足跡である。宣長の旧宅「鈴屋(すずのや)」は、現在は松坂城跡の隠居丸跡に移築されているが、もともとはこの豪商たちの軒を連ねる魚町(うおまち)にあった。
なぜ、この徹底したリアリズムと算盤(そろばん)の町から、古事記という「神代の物語」を執筆開始から35年もかけて読み解いた学者が現れたのか。宣長という人物を、単なる「国学の大成者」という教科書的なラベルで捉えようとすると、その実像は見えてこない。彼は生涯を松阪という特殊な経済都市で過ごし、昼間は町医者として患者を診て、夜に机に向かうという「生活者」の視点を決して手放さなかった。
宣長の学問の底流にあるのは、商人の子として生まれ育った者が持つ、徹底した実証主義と情報の整理能力ではないか。そう考えながら、城跡へと続く坂道を登っていく。鈴の音が聞こえてくるような気がするのは、単なる感傷だろうか。それとも、この町が今もなお、宣長が愛した「言葉の響き」を大切に守り続けているからだろうか。
蒲生氏郷が敷いた碁盤の目
松阪の町が、これほどまでに洗練された商都として完成された背景には、一人の戦国武将の明確な意志があった。1588年(天正16年)、近江日野から移封された蒲生氏郷である。氏郷は、現在の松阪市中心部にある「四五百森(よいほのもり)」に松坂城を築き、ゼロから城下町を設計した。このとき、彼は故郷である近江から多くの職人や商人を呼び寄せ、商業の活性化を図った。「日野町」という地名が今も残っているのは、その名残である。
氏郷の町づくりは、単なる軍事拠点としての城下町ではなかった。彼は町の中央に伊勢街道を引き込み、参宮客が必ず町を通るような動線を作り上げた。さらに「楽市楽座」を導入し、商売の自由を保証した。氏郷自身はわずか数年で会津へと去るが、彼が敷いた碁盤の目の町割りと、商業優先の気風は、その後の松阪の運命を決定づけた。
江戸時代に入ると、松阪は紀州藩の飛び地として統治されるようになる。藩主が常駐しない「城代」の町であったことが、幸いした。武士の圧力が比較的弱く、実力主義の商人がのびのびと活動できる土壌が整ったのである。ここで台頭したのが、後に「伊勢商人」として江戸の経済を席巻する豪商たちだ。
三井高利(三井グループの祖)、小津清左衛門、長谷川次郎兵衛。彼らの多くは、松阪に本拠を置きながら、江戸の日本橋や大伝馬町に「江戸店(えどだな)」を構えた。特に三井高利が1673年(延宝元年)に越後屋を開業した際に打ち出した「現金掛け値なし」という商法は、当時の商慣習を根底から覆すイノベーションであった。
松阪の豪商たちの特徴は、その「始末(しまつ)」の精神にある。彼らは江戸で稼いだ莫大な利益を、誇示するために使うことはなかった。松阪の本宅は外見こそ質素だが、内部には堅牢な蔵を構え、そこで茶の湯や学問に励んだ。宣長が生まれた小津家もまた、江戸に店を持つ有力な木綿問屋であった。宣長という知性は、こうした「情報の集積地」であり「富の余裕」がある土地において、初めて芽吹くことができたのである。
宣長は1730年(享保15年)、小津定利の次男として生まれた。当初は商人の道を期待され、江戸へ奉公に出されたこともあったが、本を読むことに没頭する彼は商売には向かなかった。19歳で紙問屋の養子に出されるも離縁され、22歳で家督を継ぐ立場になるが、やはり商いの才はない。困り果てた母の勧めで、彼は「医者」という、知性を生かしつつ自立できる道を選ぶことになる。この選択が、後に日本文化の深層を掘り起こす、35年に及ぶ孤独な研究の軍資金を自ら稼ぎ出す手段となった。
医師として生き、古道を歩む
23歳で京都へ遊学した宣長は、そこで儒学や医学を学ぶ傍ら、日本の古典、特に『源氏物語』や契沖の著作に触れ、深い感銘を受ける。5年半の修業を終えて松阪に戻った彼は、28歳で町医者を開業した。小児科を専門とし、往診には伊勢の宇治まで足を運ぶこともあったという。
宣長の日常は、極めて規律正しかった。昼間は患者を診て、薬を調合し、帳簿をつける。そして夜になると、二階の書斎に籠もり、古典の研究に没頭した。彼が残した『諸用帳』や『金銀入帳』といった記録を見ると、収入と支出が1文単位で細かく管理されている。この「帳簿をつける癖」は、松阪商人の血筋そのものである。彼は自らの学問を、誰からの援助も受けない「独立独歩」のものとして成立させるために、医業という経済基盤を徹底して守り抜いた。
宣長の人生において最大の転換点は、1763年(宝暦13年)の「松阪の一夜」と呼ばれる出来事である。当時、国学の第一人者であった賀茂真淵が、伊勢参宮の途中で松阪の旅籠「新上屋」に宿泊した。宣長は以前から真淵に私淑しており、この機会を逃さず面会を求めた。当時、宣長34歳、真淵67歳。この一度きりの対面で、宣長は『古事記』を研究したいという志を打ち明ける。
真淵は、いきなり『古事記』に挑むのではなく、まずは『万葉集』を読み込み、古代の言葉の響き(万葉仮名)を体得せよと助言した。この師の教えを忠実に守り、宣長は基礎体力をつけるための長い準備期間に入る。そして翌 1764年(明和元年)から、畢生の大著『古事記伝』の執筆を開始した。
『古事記伝』全44巻が完成したのは、1798年(寛政10年)。実に対面から35年の歳月が流れていた。この執筆過程は、現代の私たちが想像する「文学的な創作」とは程遠い、極めて緻密で膨大なデータベース構築作業であった。宣長は、当時すでに意味が分からなくなっていた『古事記』の本文を、一文字ずつ他の文献と比較し、音を再現し、文脈を検証していった。
彼が書斎に吊るした「36個の鈴」は、研究の合間にその音色を聴いて心を静めるためのものだったが、それは同時に、言葉の一つひとつが持つ「響き」に対する彼の鋭敏な感覚を象徴しているようにも思える。宣長にとっての「道」とは、頭の中でこねくり回す抽象的な倫理ではなく、古代の人々が実際に発し、耳にした言葉そのものの中に宿っているものであった。
京の古義学、江戸の考証学との距離
宣長の学問が、当時の他の知識人と決定的に異なっていた点は、その「非政治性」と「非道徳性」にある。これを浮き彫りにするために、同時期の他の知的中心地と比較してみる必要がある。
まず、京都には伊藤仁斎がいた。仁斎は京都の商人の出身であり、宣長と同じく朱子学の空理空論を嫌った。彼は「古義学」を提唱し、孔子の時代の言葉に立ち返ることを説いたが、その目的はあくまで「人間としてどう生きるべきか」という道徳の探求にあった。仁斎にとっての古典は、現代の我々を導く倫理の教科書であった。
一方、江戸には荻生徂徠がいた。徂徠は武士の出身であり、その学問「古文辞学」は、極めて政治的な色彩が強かった。彼は古典を読み解くことで、古代の王たちがどのように社会を統治したのか、その「制度」や「術」を学ぼうとした。徂徠にとっての言葉は、統治のための道具であった。
これらに対し、松阪の宣長が目指したものは、道徳でも政治でもなかった。彼は、古代の日本人が世界をどう感じ、どう受け止めていたのかという「心の形」そのものを復元しようとした。彼が提唱した「もののあはれ」という概念は、善悪の判断を下す前に、目の前の事象に対して心が動く、その瑞々しい感性を肯定するものである。
宣長は、儒教が説く「聖人」や「義理」といった概念を、後から外側から被せられた「漢意(からごころ)」として退けた。彼にとって、悲しいときに悲しみ、嬉しいときに喜ぶという素直な感情こそが、日本古来の「道」であった。この「ありのままを肯定する」視点は、抽象的な観念に振り回されず、目の前の商品や利益、客의 反応を直視する商人のリアリズムに通じている。
また、宣長は門人の数においても際立った存在であった。没時の門人数は488名に達し、その顔ぶれは、公家や武士から、農民、商人に至るまで極めて幅広い。彼は一度も松阪を離れて仕官することなく(晩年に紀州徳川家に招かれたが、あくまで講釈のためである)、一介の町医者としてこの巨大な知的ネットワークを維持した。
これは、江戸や京都のような権力の中心地ではなく、伊勢街道という「情報の十字路」に位置する松阪であったからこそ可能だった。宣長のもとには、全国から伊勢参りのついでに立ち寄る門人たちがひっきりなしに訪れ、最新の書籍や情報をもたらした。彼は松阪にいながらにして、日本中の知性を自らの書斎「鈴屋」へと接続していたのである。
城跡に移された書斎の静寂
明治に入り、松阪の町は大きな転換期を迎える。1893年(明治26年)、松阪を襲った大火は町の中心部を焼き尽くしたが、幸いにも宣長の旧宅「鈴屋」は類焼を免れた。しかし、その後の都市計画や保存の観点から、1909年(明治42年)、建物は現在の松坂城跡へと移築されることになった。
現在、松坂城の石垣の上に建つ「鈴屋」を訪れると、その一階には宣長が患者を診た「店の間」があり、二階にはわずか四畳半の書斎がある。この書斎は、宣長が53歳のときに物置を改造して作ったものだ。階段は急で、入り口は狭い。この密室のような空間で、彼は夜な夜な、千年前の言葉と対話していた。
建物のすぐ横には「本居宣長記念館」が併設されており、そこには国指定重要文化財を含む膨大な資料が収蔵されている。宣長が自ら描いた自画像や、一字の書き損じもない『古事記伝』の稿本を見ると、その異様なまでの集中力と、整理整頓の行き届いた知性に圧倒される。
一方で、松阪の町そのものも、宣長の遺産を静かに守り続けている。魚町の旧宅跡には今も土蔵が残り、近隣には三井家発祥の地や、旧長谷川治郎兵衛家といった豪商の邸宅が一般公開されている。これらの建物は、宣長が生きた時代の空気感を今に伝える貴重なタイムカプセルである。
現代の松阪は、かつての「江戸店持ち」のような圧倒的な経済的覇権を握っているわけではない。しかし、町を歩けば、宣長の通称にちなんだ「ベル(鈴)」の名を冠した施設や、鈴のモチーフをあしらった街灯が目につく。それは、この町の人々が、単なる富の蓄積だけでなく、そこから生まれた「知の巨人」を、自らのアイデンティティの核として大切にしていることの表れだろう。
宣長が愛した山桜は、今も春になると城跡を彩る。彼は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ。この歌は後に軍国主義に利用された不幸な歴史を持つが、宣長が本来意図したのは、理屈を超えた直感的な美しさへの賛美であった。その精神は、権威に媚びず、自らの生活と学問を律し続けた、一人の松阪市民の矜持そのものであったと言える。
言葉の「市場」から生まれた古典
本居宣長という人物を、私たちはつい「古き良き日本」を懐かしんだ復古主義者として見てしまいがちだ。しかし、松阪という町が生んだこの知性の本質は、むしろ「言葉の市場」における冷徹なアナリストとしての側面にあるのではないだろうか。
彼は、古事記というテキストを、信仰の対象としてではなく、解読すべき「暗号」として扱った。そこには、商人が帳簿の不整合を正し、市場の動向を予測するのと同じような、徹底した実証的プロセスがある。宣長にとっての「古道」とは、失われた理想郷への回帰ではなく、言葉という「動かぬ証拠」を積み重ねた先に現れる、客観的な事実の総体であった。
松阪の豪商たちが、江戸という巨大なマーケットで「信用」と「合理性」を武器に成功を収めたように、宣長もまた, 学問の世界において、先入観(漢意)というノイズを排除し、テキストそのものの価値を公正に評価しようとした。彼が『古事記』の冒頭「天地」をどう読むかに5年も悩んだというエピソードは、一見非効率に思えるが、それは「不確かな情報は扱わない」という、商人の誠実さそのものである。
私たちは今、溢れかえる言葉の海の中に生きている。感情を煽る言葉や、大上段に構えた正義の言葉が飛び交う中で、宣長が松阪の書斎で実践した「一文字一文字を疎かにしない」という態度は、むしろ現代においてこそ切実な意味を持つ。
松坂城跡の石垣に腰を下ろし、眼下に広がる碁盤の目の町を眺める。かつてここを通った参宮客の喧騒や、江戸へ向かう飛脚の足音はもう聞こえない。しかし、この町が育んだ「実を尊ぶ」という精神は、宣長が読み解いた古典の響きとともに、今もこの土地の底に沈殿している。
旅を終えて駅へ向かう道すがら、ふと路地の奥から小さな鈴の音が聞こえたような気がした。それは、特定の誰かのための音ではなく、この町が何世紀にもわたって積み上げてきた、静かな時間の鼓動であったのかもしれない。松阪という町は、富という目に見える成果の裏側に、言葉という目に見えない財産を、今も大切に蔵の中にしまい込んでいる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 松阪物語~市街地の豪商たち~ - お肉のまち 松阪市公式ホームページcity.matsusaka.mie.jp
- 本居宣長 - ジャパンサーチjpsearch.go.jp
- 城下町三重県松阪市の年中行事、氏郷まつりから見える地域の伝統文化の継承のありかた | 芸術教養学科WEB卒業研究展 | 京都芸術大学通信教育課程g.kyoto-art.ac.jp
- 本居宣長について|本居宣長記念館(公式ホームページ)へようこそ!norinagakinenkan.com
- 粋で独創的な豪商たちと偉大なる知性に出会う旅 松阪で“温故知新”をしっとり体験!もちろん絶品グルメも | 松阪市観光インフォメーションサイトmatsusaka-info.jp
- 本居宣長 日本史辞典/ホームメイトtouken-world.jp
- 本居宣長記念館matsusaka-machiaruki.jp