2026/6/4
利根川と生糸が刻む、前橋の「4つの危機」と民力の物語

前橋の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
前橋の歴史は、利根川の氾濫と度重なる戦災という「危機」を乗り越え、生糸産業で活気を取り戻してきた。城下町から近代都市、そしてアートの街へと変貌を遂げる過程で、市民の力が都市の骨格を形作ってきた。
前橋の街を歩くと、利根川の雄大な流れが常に傍らにある。その水辺の風景は、都市の日常に静かな存在感を与えているが、かつてこの大河がもたらしたのは恵みばかりではなかった。河岸段丘の地形に抱かれ、関東平野の北西に位置するこの都市は、なぜこれほど多様な歴史を刻み、変化を続けてきたのか。その問いを抱くと、足元の地面から幾重にも重なる過去の層が、見えない形で浮かび上がるようだ。
前橋の歴史は古く、古墳時代にはすでに東国の有力な地域として栄え、700基を超える古墳が築かれていたという。奈良時代には元総社地区に上野国の国府が置かれ、政治・文化の中心地であった。 中世に入ると、この地は「厩橋(うまやばし)」と呼ばれ、利根川の水運と陸路が交差する要衝として、その名を確立していく。城の起源には諸説あるものの、室町時代末期には長野氏の支城である石倉城が始まりとされ、天文3年(1534年)の利根川の氾濫で流路が変わり、残った三の丸を拠点に厩橋城が再築されたと伝わる。
戦国時代には上杉氏や後北条氏が支配を争い、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入封すると、家臣の平岩親吉が厩橋に封じられ、前橋藩の立藩となる。 その後、関ヶ原の戦いの功により酒井重忠が入封し、城の大改修を行い、三層の天守も造営された。 17世紀中頃から18世紀初頭にかけて、酒井忠清から忠挙の時代に「厩橋」は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになったとされる。 徳川家康が「関東の華」と称したという前橋城は、江戸幕府の要所として、酒井氏の後に徳川一族である松平氏が藩主を務めることとなる。
前橋城は利根川に隣接して築かれたため、度重なる洪水によって浸食の被害を受け続けた。 寛延元年(1748年)には本丸にも被害が及び、藩主の酒井忠恭は移転を申請したが、その途中で播磨国姫路藩への転封が命じられ、代わって松平朝矩が前橋藩主となる。 しかし、松平氏の時代にも利根川の浸食は止まず、明和6年(1769年)には城の主要部分が取り壊され、廃城に至った。
廃城から約100年後、幕末の開国と横浜港の開港は、前橋に新たな活気をもたらす。それは「生糸」だった。 前橋は古くから養蚕が盛んな地域であり、明治初期には「前橋製糸場」が日本で初めて洋式器械製糸を導入し、富岡製糸場よりも2年早く稼働したとされる。 前橋の製糸業は、官営の大規模工場とは異なり、民間主導の多極分散型で発展した点が特徴的だった。 前橋藩は早くから生糸改会所を設けて品質管理を徹底し、横浜の売込商を指定して委託販売を行うなど、輸出体制を確立していく。 良質な前橋産の生糸は欧米で高く評価され、「マイバシ(Mybash)」の名で知られるほどだったという。 利根川は水害の脅威であると同時に、製糸に必要な水を供給し、水車の動力源としても利用された。 この絹景気の豊富な資金は、一時廃城となっていた前橋城の再築を可能にする原動力にもなったのである。
前橋の歴史を他の地域と比較すると、その特異性が浮かび上がる。まず、城下町としての前橋は、利根川という大河との共存に常に苦慮してきた。多くの城が堅牢な地形や水利を選んで築かれるのに対し、前橋城は利根川の浸食に抗しきれず、一度は廃城を余儀なくされた。 これは、同じく河川を抱える城下町が治水技術で川を制御したのとは異なる、自然の力に対する絶え間ない適応の歴史を示している。明治30年代に建設された岩神の石堤や、昭和22年のカスリーン台風後に復旧された鉄線蛇篭護岸、さらには県庁裏に見られる小型ケーソン基礎護岸など、前橋地先の利根川護岸には、その時々の最先端の治水技術が投入されてきた経緯がある。
また、絹産業における前橋の役割も独特である。群馬県といえば世界遺産の富岡製糸場が知られるが、前橋はそれ以前から洋式器械製糸を導入し、官営ではなく民間の力で産業を牽引した。 富岡製糸場がフランス積みという優美なレンガ積みを特徴とするのに対し、前橋に残るレンガ倉庫にはイギリス積みの堅固な構造が多く見られる。 これは、異なる産業振興の思想と、それに伴う技術選択の多様性を物語るものだろう。前橋の生糸は横浜港へと運ばれ、世界市場へとつながる「絹の道」を形成した。 このように、前橋は中央集権的な国家プロジェクトとは一線を画し、地域に根ざした民間主導の産業発展と、大河との格闘の中で独自の都市像を築いてきたのである。
明治維新後、前橋は群馬県の県庁所在地となり、近代都市としての基盤を固めていく。 しかし、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日夜から6日未明にかけての前橋空襲は、市街中心部の約80%を焦土と化し、多くの犠牲者を出した。 この壊滅的な被害からの復興は、市民の力によって進められた。
戦後、生糸産業は化学繊維の普及により衰退の一途を辿るものの、その遺産は今も街の随所に見られる。大正2年(1913年)建築の旧安田銀行担保倉庫は、生糸・乾繭の保管庫として機能し、「生糸の市」としての前橋の歴史を伝える国の登録有形文化財だ。 現代の前橋は、歴史的な遺産を保全しつつ、新たな価値の創造都市を目指している。2024年4月には、前橋の歴史を後世に語り継ぐ歴史エンターテインメント施設「ヒストリア前橋」がオープンし、徳川家康が「関東の華」と称した城下町が乗り越えてきた「4つの危機」と「民力」に焦点を当てている。 また、近年では市内出身の企業家による地方創生プロジェクトによって、現代アートの街としての再生も進んでいる。 ホテルやギャラリー、美術館などが点在し、歴史的な建物がリノベーションされることで、新たな文化の拠点となっているのだ。
前橋の歴史をたどると、そこには絶え間ない変化と、それに抗い、あるいは順応しながら発展を遂げてきた人々の姿が見えてくる。利根川の脅威に晒されながらも、その水利を活かし、生糸という新たな産業で都市の活力を生み出したこと。そして戦災で一度は失われた街を、再び市民の力で築き上げてきたこと。
「幻の城」と称される前橋城の再築と解体の歴史は、単なる建築物の変遷ではなく、時代ごとの社会情勢や権力の移り変わり、そして市民の経済力が都市の姿をどれほど大きく動かすかを示している。 現代の前橋に息づくアートや文化、そして残されたレンガ造りの倉庫群は、過去の栄華を静かに語りながらも、この街が常に未来に向けて変化し続ける、その骨格を形作っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。