2026/6/8
藩の石高は米だけ?畑作・海産物・工芸品の経済力

そもそも、藩の石高とは米の生産量のみだったのか?他の作物や海産物や工芸などの生産力は石高の計上に含まれたのか?
キュリオす
江戸時代の石高制は米の生産量だけでなく、畑作物も米に換算して計上された。海産物や工芸品は直接石高に含まれないが、運上金や専売益として藩財政を支え、実質的な豊かさ(内高)を形成した。石高だけでは測れない地域の多様な経済実態を辿る。
江戸時代の「石高」という言葉を聞くとき、多くの人はまず、広大な水田を想像するのではないか。米の収穫量、それがそのまま藩の財力を示す指標として機能していた、と。しかし、本当にそれだけだったのだろうか。山深い地域や海に面した藩、あるいは独特の工芸品で知られる藩の経済は、どのようにこの「石高」の枠組みの中に位置づけられていたのだろう。この問いは、単に歴史用語の定義に留まらず、江戸時代の社会構造と経済の実態、そして土地と人々がどのように結びついていたのかを考える上で、ひとつの重要な手がかりとなる。
石高制は、太閤検地によって豊臣秀吉が確立したとされる土地生産力表示の制度に端を発する。それ以前にも貫高制のような土地生産力表示はあったが、秀吉は全国規模で土地の測量を行い、土地の種類や等級に応じて米の生産量に換算する基準を設けた。これが「石盛(こくもり)」と呼ばれるもので、土地一反あたりの米の生産量を石・斗・升で表示する。この石盛によって算出された土地ごとの米の生産見込み高の合計が、その土地の「石高」とされたのだ。
江戸時代に入ると、この石高制は徳川幕府によってさらに整備され、全国の藩の経済力や軍役負担の基準として用いられるようになった。大名が幕府から与えられる領地の規模は「表高(おもてだか)」として石高で示され、これに基づいて軍役や普請役などの義務が課せられたのである。この制度の根底には、米が当時の主要な食糧であり、かつ税として徴収しやすいという実用的な側面があった。年貢米は藩の財政を支える基盤であり、米の生産量こそが、領地の豊かさ、ひいては大名の権力と直結すると考えられたのだ。
しかし、石高が米の生産量に換算されたからといって、米以外の作物が完全に無視されていたわけではない。太閤検地の段階から、畑は「畑方(はたけがた)」として検地帳に記載され、その生産力は米に換算されて石高に計上された。例えば、綿や菜種のような商品作物は、その収益性に応じて米の石高として評価されたのである。これは、米以外の作物がもたらす経済的価値を、米という共通の尺度で把握しようとする試みだったと言える。
海産物や工芸品については、直接的に石高に計上されることは少なかったが、間接的な形で藩の財政に貢献し、結果として「内高(うちだか)」と呼ばれる実質的な生産力を形成した。表高が幕府公認の石高であるのに対し、内高は実際の検地や生産力向上によって表高を上回る実収を指す。例えば、豊かな漁場を持つ藩では、漁獲物から得られる運上金(税金)や冥加金(営業許可料)が藩の重要な収入源となった。また、特定の工芸品が盛んな地域では、その生産・流通から得られる税収や専売益が藩財政を潤した。これらの収入は、直接的な米の石高ではないが、藩の「実力」として認識され、時には表高をはるかに超える内高を持つ藩も存在した。例えば、加賀藩は表高100万石であったが、その内高は120万石とも150万石とも言われ、その差は米以外の多様な収入源に支えられていたとされる。
全国の藩を石高で比較する際、その数字は一見して絶対的な指標のように見える。例えば、加賀藩の100万石は、他を圧倒する大藩としての地位を示していた。一方で、米作りに適さない土地が広がる地域や、漁業・商業が盛んな藩では、石高だけではその実態を捉えきれない側面があった。例えば、薩摩藩は表高が77万石であったが、琉球貿易による莫大な利益や、砂糖生産といった商品作物からの収入が藩財政を大きく支えていた。これらの非米収入は、藩の経済力として表高には反映されないが、軍事力や政治力に直結する重要な要素であった。
また、北前船に代表される海上交通の要衝にあった藩では、港湾利用料や商業活動からの税収が藩の財源となっていた。これらは「石高」という米を基準とした評価軸とは異なる、経済活動の多様性を示すものだ。米の生産力に乏しいが故に、他の産業を積極的に育成せざるを得なかった藩も少なくない。例えば、越後高田藩は雪深い地域であったため、米作の他に漆器や絹織物などの工芸品が発達し、これらが藩財政を補完する役割を果たした。このように、石高はあくまで幕府による統治の便宜上の指標であり、各藩の実質的な豊かさは、その土地の地理的・文化的特性と密接に結びついていたと言える。
江戸時代が終わり、石高制は明治維新とともに廃止された。しかし、その影響は現代の地域社会にも様々な形で残っている。例えば、かつての大藩の城下町は、今も県庁所在地として行政の中心であり続けていることが多い。これは、石高によって示された経済力と人口の集中が、その後の都市形成の基盤となったことを物語っている。
一方で、石高だけでは測りきれなかった地域の特性は、現代において「地域ブランド」や「伝統産業」として再評価されている。かつて米以外の収入源が藩財政を支えたように、現代ではその土地ならではの特産品や技術が、地域経済の活性化に貢献している。例えば、前述の薩摩藩の砂糖や琉球貿易、越後高田藩の漆器などは、現代でもその地域の重要な産業や文化として継承されている。これらの地域は、石高という単一の尺度では捉えきれない、多角的な価値を持つ場所として、現代の私たちにその存在感を示しているのだ。
石高は、江戸時代の土地生産力を米という単一の基準で捉え、幕府の支配体制を支える上で極めて効率的なシステムであった。しかし、そのレンズを通して見えてくるのは、決して米作一辺倒の社会ではなかったという事実である。畑作物の換算、海産物や工芸品からの間接的な収入、そして「内高」という実質的な豊かさの存在は、石高という「表」の数字の裏に、各藩がそれぞれの土地の条件に合わせて多様な経済活動を展開していたことを示している。
この制度は、米の生産が困難な地域に、他の産業を発展させる動機を与えたとも言える。石高という枠組みの制約の中で、藩がどのように財源を確保し、領民の生活を支えてきたのか。その問いの先に、私たちは、ある基準が社会に与える影響と、その基準からこぼれ落ちる多様な現実を読み解くことができるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。